「気候変動」をネタにして、人の意識について考え、思いつくままに書いてみた。 ノーベル物理学賞受賞者含む300人の学者が「気候変動の緊急事態など存在しない。科学の危険な腐敗だ」と宣言「風力、太陽光は完全な失敗で環境を破壊しているだけだ」
食とか、温暖化とか、その手の話題になると、つい声を荒らげてしまいがちな舞々です。今日は、「300人の学者が「風力、太陽光は完全な失敗で環境を破壊しているだけだ」という記事を読んだので、気候変動をネタにして、思いつくままに書いてみます。
最初に私の見解を簡単に述べておくと完全な共感です。この記事への共感を私の視点で書いていきます。
たかが数十年の調査・研究で何がわかるというのだろうか?それに、小さな人類が大きな地球に多大な影響を及ぼすことができると思っているのだろうか?これは気候の話ではない。物理の話であって、46億年、130億という地球と宇宙の歴史の話なのである。直近の気候データだけで何が言えるというのだろう。私たち人類が地球の宇宙の影響を受けているのであって、ここに来て人は何とも傲慢になり下がり、自分たちが地球に対して影響を与えるという精神的な逆転現象じゃないかと思う。私たちは生かされているという感覚がないのである。自分たちの力だけで世界を思うようにできると勘違いしている輩が増えたように思う。
これをエゴイストと言わずして、何というのだろうか?SNSの投稿を見てもエゴイストだらけである。そして、ロクに理解もせずに人権だの自由などの言葉を使い正義を振りかざす。かつてこれほどまでに人々が傲慢であったことがあっただろうか?
気候変動対策などというものが、如何に如何わしいものであるのか?そのことは、別にノーベル賞学者でなくとも、少なくとも日本の高校を卒業しているレベルの物理を学んでいれば、わかる話なのである。
なのに、なぜにこれほどまでにバカみたいに異常気象だのと大騒ぎする輩が大勢いるのだろうと思う。
私たちの一生というスケール感では、確かに50年前に比べると暑い。それを否定するつもりはない。そもそも気候というのは変動するもの。
たとえば、現代では寒冷地に分類される青森、かつて約5000年前の縄文期にはその青森・三内丸山に大集落が存在した。出土する化石などから5000年前の青森は今よりも非常に温暖であったのである。恐らく現在の関東よりも暖かったのでないかと予測できる。
それから5000年が経った今、あれ?当時よりもさらに温暖化してますか?むしろ寒冷化してますよね?これまでに人類は散々悪さをしてきてますよね?
命は流れである。500万年とも400万年とも言われる人類のその歴史の中で、脈々と流れ受け継いできたのが命というものである。それをひとつの命を取り上げて、バカにみたいそれを守ろうして、他人を傷つけても平気でいられる。身内の命を守ることを最優先する。何かがおかしいと思わないのだろうか?
大体が心臓が動いているだけ、息をしているだけの体で、それを生きていると言えるのだろうか?
尊厳とは何だろう?辞書にはこう書いてある。
尊く、おごそかで、犯してはならないこと。気高く威厳があること。
命とは、生きることだけにあるのか?死を含めての受け入れてこその命なのではないのか?だからこそ尊厳を守りつつ大切につないでいく。それが命ではないのか?そこに命の尊さがあるのではないのか?
だから現代人の言う「命を守る」とか「命を大切に」にはどこか何かが間違っているように思えてならない。
昨日も書いたが、自由や人権という言葉を軽々しく使うことの気持ち悪さ、そして現代人は軽々しく「命を大切に」と口する。そんな言葉を吐きながら、食べ物を粗末にし、命を粗末に扱って、平気でいられるメンタル、どこを見て何を考えて生きているのだろうと思う。
「半径5mの世界観」
かつて舞々の友達が、現代人を称して「半径5mの世界観」と言った。なるほどねと思う。上手いことを言う。そんな世界観では地球温暖化と言われもね、そりゃ何の疑問も持たないでしょうよ。