令和7年1月1日、元旦、あけましておめでとうございます。 今年もどうぞよろしくお願いします。
新年を迎えるにあたって
みなさま新年あけましておめでとうございます。新年を迎えみなさまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
昨年までの様々なことを思い起こすと、世について、人々について、3つのことを思いました。
・すべてが逆転してしまっている
・あまりに言葉に引きずられている
・もっと背景に思いを馳せようよ
そこで、みなさまに次の2つを新年の贈り物としてお届けしたいと思う。
徒然草 第38段
これを読むと、人というのは、根本的にとっちらかっているものなんだと思う。まずは、そういうものなんだという理解をすることが大切なことであって、現代はそれを〇〇症だのとレッテルを貼り否定をして変えようとする。そういうことを兼好法师はバカバカしいと一蹴している。
原文
名利みやうりに使はれて、閑しづかなる暇いとまなく、一生を苦しむるこそ、愚おろかなれ。
財たから多ければ、身を守るに貧まどし。害を賈ひ、累わづらひを招く媒なかだちなり。身の後のちには、金こがねをして北斗ほくとを支ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉きんぎよくの飾りも、心あらん人は、うたて、愚おろかなりとぞ見るべき。金こがねは山に棄すて、玉は淵ふちに投ぐべし。利に惑まどふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋うづもれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生むまれ、時に逢へば、高き位に昇り、奢おごを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賎いやしき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏に高き官つかさ・位を望むも、次に愚かなり。
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉ほまれも残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞ききをよろこぶなり、誉ほむる人、毀そしる人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰たれをか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉ほまれはまた毀そしりの本もとなり。身の後のちの名、残りて、さらに益やくなし。これを願ふも、次に愚おろかなり。
但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出いでては偽いつはりあり。才能は煩悩ぼんなうの増長ぞうちやうせるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるかを智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるかを善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰たれか知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本もとより、賢愚けんぐ・得失とくしつの境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利みやうりの要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。
現代語訳
人から羨望の眼差しで見てもらうために忙しく、周りが見えなくなり、一息つく暇もなく、死ぬまでバタバタしているのは馬鹿馬鹿しい。
金目の物がたくさんあれば、失う物を守ることで精一杯になる。強盗や悪党を呼び寄せ、宗教団体のお布施にたかられる媒介にもなる。黄金の柱で夜空に輝く北斗七星を支えられるぐらいの成金になっても、死んでしまった後には、誰の役にも立たないばかりか、相続で骨肉の争いが勃発するのが目に見えている。流行の最先端を歩もうとする人向けに、目の保養をさせて楽しませるような物も虚しい。運転手付の黒塗りの高級車や、プラチナの爪にダイヤモンドを飾ったアクセサリーなどは、賢い人ならば「下品な成金の持ち物」で「心が腐っている証拠だ」と、冷ややかな目で黙殺するに違いない。金塊は山に埋め、ダイヤモンドはドブ川に投げ捨てるのがよく似合う。物質的裕福さに目がくらむ人は、とっても知能指数が低い人なのだ。
時代に埋もれない名誉を、未来永劫に残すことは理想的なことかも知れない。しかし、社会的に地位が高い人だとしても、イコール立派な人だとは言えない。欲にまみれた俗人でも、生まれた家や、タイミングさえ合えば、自動的に身分だけは偉くなり、偉そうな事を言いはじめる。通常、人格者は、自ら進んで低い身分に甘んじ、目立たないまま死ぬことが多い。意味もなく高い役職や身分に拘るのも、物質的裕福さを求める事の次に馬鹿馬鹿しいことである。
「頭脳明晰で綺麗なハートを持っていた」という伝説だけは、未来に残って欲しいと思うかも知れない。しかし、考え直してみれば「自分の事が伝説になって欲しい」と思うのは、名誉を愛し、人からどう思われるかを気にしているだけだ。絶賛してくれる人も、馬鹿にする人も、すぐに死ぬ。「昔々あるところに、こんなに偉い人がいました」と話す伝説の語り部も、やはりすぐに死んでしまう。誰かに恥じ、自分を知ってもらいたいと願うことは無意味でしかない。そもそも、人から絶賛されることは、妬みの原因になる。死後、伝説だけが残ってもクソの足しにもならない。従って「伝説になりたい」と願うのも、物質的裕福さや、高い役職や身分に拘る事の次に馬鹿馬鹿しいことなのであった。
それでも、あえて知恵を追求し、賢さを求める人のために告ぐ。老子は言った。「知恵は巧妙な嘘を生むものである。才能とは煩悩が増幅した最終形だ。人から聞いた事を暗記するのは、本当の知恵ではない。では、知恵とはいったい何であろうか。そんな事は誰も知らない」と。荘子は言った。「善悪の区別とはいったい何であろうか。何を善と呼び、何を悪と呼べばいいのだろうか? そんな事は誰も知らない」と。本当の超人は知恵もなく、人徳もなく、功労もなく、名声もない。誰も超人を知らず、誰も超人の伝説を語ることはない。それは、真の超人が能力を隠し馬鹿なふりをしているからではない。最初から、賢いとか、馬鹿だとか、得をするとか、失ってしまうとか、そんなことは「どうでもいい」という境地に達しているから誰も気がつかないのだ。
迷える子羊が、名誉、利益を欲しがる事を考えてみると、だいたいこの程度の事だ。全ては幻であり、話題にする事でもなく、願う事でもない。
未だ、生まれていないものの声|首藤小町
この首藤さんのnoteを読んで舞々はこんなことを思いました。
このnote記事で舞々が共感した言葉
”そもそもの事柄の方に疑問を抱く”
”いろいろなものが逆転してしまっている”
私も今激しく議論されている内容よりも”そもそもの事柄の方に疑問を抱く”タイプ?である。そして筆者は少子化対策として繰り広げられる議論に対して”生命に対する無礼な干渉だ”とぶった斬る。私も全く持って無礼千万な話だなと思う。
この姿勢と物事の捉え方を持ち合わせている現代人は少ない。多くの人が上っ面な大人の都合ですべてを語り物事の本質を見え難くしてしまっている。本質が見えてない状態でよくあれこれと語れるものだと私は常にため息まじりで感心する。
私は自身のブログで
「恐れを祀り、五感を開いて磨く、その時に決して世間の声に耳を傾けてはいけない。自然の声に耳を傾けなければいけない。なぜなら、人間の声に耳を傾けると本質を見失ってしまうからだ。」
何かあると必ずここに立ち戻るようにしていると、要所要所で書いているのだが、この言葉に「ハッ!」とする人がどれくらいいるのだろうかと思う。私は初めてこの言葉を聴いた時に衝撃波を受けたかのように「ハッ!」とした。それ以来、私の中で何かの花が開くようになった。
”未だ生まれないものの声を聞けるほどの静けさ、穏やかさを持ったときにのみ、何かが花開く”
ただ只管見守るだけという行為ができなくなってしまった人々、いったいみな何がしたいのだろう?と思う。
もうひとつ
権威・権力・富を得ると人は下衆になる。
これは肝に銘じた方がいいと思う。
そんな上から目線の人たちに騙されないためには、自身も勉強して理論武装をし、さらに思考訓練を繰り返さなければならないと思う。
そして、みなが「そもそも論」を持てるようになってくれたらいいなと思う。
舞の寝室には今年の抱負的なことを書きました。
合わせてお読みくださいませ。