あくまでも全体があっての個だということ
豆も同じなら豆の量も同じ。とにかく、人が同じだと認識できるレベルで、すべてを同じにする。豆の種類、栽培地、収穫時期、焙煎、挽き方、ドリッパー、サーバー、フィルター、お湯の温度、お湯を落とす速度、落とし方、珈琲カップ、カップソーサー、珈琲を飲む空間、BGM、・・・違うのは珈琲豆を挽きドリップする人。
これだけのことを同じにしても、決して同じ味、香りにはならない。淹れる人が違うと珈琲の味や香りはまったく違うものになる。
そういうことなのです。人々は如何に滑稽なところで悩み議論をしているのかってことなんです。
このことを様々な事象とつなげることができる人は幸せになれる。そしてそういう人が多ければ、今、こんなことにはなっていない。
このことを理解できない人、つなげられない人は、他人をとことんまで不幸にする。
それが今。
まあ厳密には、豆もひと粒ひと粒違う。人も人という意味では同じだが・・・顔も違えば性格も違う・・・何もかもが違うのだ。当然のように豆に与える影響が違っても何の不思議もない。
現代科学に毒された現代人は、そのことを本能で理解できなくなってしまっている。それが様々な混乱の根源なんだと思う。哀れだ。
自然との回路を断った人間たちに人間の心や身体について語る資格はない。その資格のない連中が騒いでは様々な混乱を引き起こしている。
だからこそ・・・個よりも全体を考えなくていけない。個を尊重しつつも全体を考えないといけない。今は全体と個がごっちゃになってしまっている。「全体の中の個」。そのことに早く気付いてほしい。今回の騒動は、そういうことなんだと思う。神のお告げなのかもしれない。
ところがどっこい、神の心人知らず、未だに人間どもは暴走し続けている。
大自然災害を仕掛けても、パンデミックを仕掛けても、どうやってもおかしな方へ向かっていく。
「おーい!戻って来い!」・・・と、神はまた大仕掛けを考えていることだろう。
そんな思いの中で始まった令和4年(2022年)、舞はより一層次のような姿勢で1日1日をひとりひとりを大切にしていきたいと思う。
・和顔愛語 先意承問 語先後礼
・一切衆生悉有仏性
・秘する花を知ること。花無心にして蝶を招き、 蝶無心にして花を訪ぬ。花開くとき蝶来たり、 蝶来たるとき花開く。吾もまた人を知らず。人もまた吾を知らず。知らずして帝則に従う。
・秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。